とうとう限界に達した 2015年冬

今頃の季節、クリスマスから年末が近づいて来ると、僕はいつも3年前の今頃を思い出します。2015年の冬、僕の体はとうとう限界に来ました。

その年の年内の仕事ももうすぐ終わり、という頃でした。街はクリスマスムードに包まれ、忘年会やらパーティーやらで、僕が一番好きなシーズンです。でもあの年は最悪の年の瀬でした。

christmas

年内、最後の大きな仕事である1週間の集中プログラムの講師を務めるため、僕は月曜日の朝、地下鉄の駅を歩いていました。その時、あのパニック障害が襲いかかってきたのです。

僕はその場に立ち止まって身をかがめ、治まるまでじっとしていました。体中、感電したようにビリビリし、それが1分くらいは続いたように思います。電流の通ったソケットに指を突っ込んでしまったような感じでした。

clectricshock

ビリビリが治まって、僕はその場でドリーに電話を掛けました。僕は短く「病院に行かないとダメだ。なんか普通じゃない、とにかく今日は病院に行くから」と言いました。あとでドリーは、僕のあんな声、聞いたことがなかった、と言っていました。それほど僕はもう限界に達していたんです。

持っていたビタミンBを飲み込み、残った気力だけで僕は研修が行われる会場に行き、午後から始まるプログラムを前に行われるオリエンテーションを始めました。

会場の手伝いに来ていたアシスタントに、僕は最後までできるかどうかわからないから、もし何かあったら、うまくカバーしてほしい、と言いました。

electric

10分おきくらいに、あのビリビリが繰り返し襲ってきていました。指先の感覚がもうなくなって、ペンを持っているんだけどペンを持っていないような感じ。受講者を前に話しをしながら、体はずーっとビリビリ電気が走っていて極限状態にあるのに、でもそれを知っているのは自分だけで、その場にいる人はまったく気づいてもいない、という異様な状況でした。とにかくどのようにあの1時間を終えたのか、もう奇跡としか言いようがありませんでした。

lecture

昼休みを取って、ようやくさっき飲んだビタミンBが働き出したようで、僕は少し落ち着きをとり戻し始めました。でもどう考えても僕の体は普通ではなく、目に見えない細い糸で、体の中を通る神経を八方に引っ張られているような、皮膚がピンピンに引きつったようなおかしな感覚を持ったまま、夕方までなんとか講師を務めました。

でも絶対に僕は病院に行って医者に診てもらわないといけない、絶対に何かが起きていると思いました。

宿泊するホテルの部屋に入り、ぐったり疲れているのに、体の緊張感は相変わらずで、その夜は眠れず、2時間寝ては次の2時間目が覚めて、ようやく寝たと思ったらまた2時間で目が覚めるという最悪の状態でした。

体はずーっと細かく震えていました。夜中に酔っぱらって帰って来た宿泊客が廊下で騒ぐ声がうるさくて、僕は頭に来て、さらにまた疲れるというどうにもならない夜でした。

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翌日の朝、僕はやはり絶対病院に行かないとダメだ、今日一日体が持ちそうにないと思いました。息が苦しくなり、パニック症になりそうで、不安が次から次へと暴走列車のようにやって来て、収拾がつかなくなっていました。

体がまた震えて、足がふらふらして、研修会場までの道を歩くのに、殆ど前に進んでいないような感じでした。この時が、本当に僕の最後の最後のエネルギーを使い果たした瞬間でした。

会場について僕は会社に電話をかけ、アシスタントに研修場所にすぐ来るように頼みました。来るまで何とかやるから、その後の代役をお願いしました。

講師ではないアシスタントにこんなことを頼むなんてこと、僕は絶対やらないんだけど、もう他に選択肢はありませんでした。もうその場に立っていることすらできなかったんです。

help

前日の夜、英語が通じる病院をスマホで検索してあったので、六本木にあるそのクリニックにタクシーで向かいました。5時前に到着し、5時半過ぎに診察がはじまりました。

ドクターは最初から英語で話してくれました。そして医師が言ったんです。「ストレスでしょうね」

何?もう勘弁して下さい。ストレスはありますよ。だからこんなことになっているんです。何か手当して下さい。

医師はこう続けます。「リラックスする方法を、ご自分で見つけ出してください」

もっと、具体的に、なにか今できることがないか、教えてください。そんなフワッとした事じゃなくて。

医師はそんな僕の内なる叫びを知ってか知らずか、ある漢方薬を出してくれました。『五苓散』という薬でした。

doctor

クリニックを出て、僕は少し安心して、気分が落ち着いていることに気づきました。少なくとも昨日からの症状を英語で話すことができて、医師が聞いてくれて、そしてひとまず薬も出してくれたことで、気持ちがすこし安らいだのでした。ホテルまで電車で帰ることができました。

ドリーに電話して、診察の事や漢方薬のことを話しました。実際のところ、ドリーは僕がどれほどひどい状態だったかはわかっていなかったと思いますが、僕がいつもストレスと闘っていることはわかっていたし、それが原因で具合が悪くなったこともわかっていました。

翌日、僕は研修会場に行き、少し体調も良くなっていると感じました。薬の効果もあるのかな、と思いました。

でもこの日、僕はまた新たな問題に見舞われました。

左手の親指が思うように動いていないことに気づきました。スマホ画面を左手の親指で操作しようとしたら、押そうと思ったボタンとまったく違う所に行ってしまうのです。親指が勝手に自分の意思で動いているかのように、全然違う場所を押してしまうのです。

右手に持ち替え、右手の親指でやってみたら、問題ありませんでした。体に走る電気、震え、手の感覚、指の変な動き、これらすべて、僕の神経系が壊れていってたのです。恐怖しかありませんでした。

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体の不調とともに、僕は気持ちももう限界に来ていました。今までのように、我慢強く寛大な気持ちでいることがどんどん難しくなり、すぐにイラっとしたり、腹が立つことが多くなっていました。

研修の受講者や生徒の受講態度にも、イラついてしまうようになっていました。恥ずかしがってもじもじしたり、冷めたような態度を取る生徒は必ずいるものなんですが、今までのように粘り強く、彼らを鼓舞したり、優しく対応することがだんだん難しくなっていました。

僕がこんな体調でも、必死にやっているのに、受講者は白けた感じで一日中ただ座っていることに、僕はもう我慢の糸が切れかかっていて、今までの自分とはかなり違った反応をしたりするようになっていました。でももちろん受講者はそんなことにも気づかないのです。

frustration

全プログラムを終えて、帰宅した僕はもう体も心もボロボロになっていて、もうこんなことは続けられない、死んでしまうかもしれない、と感じていました。50年以上生きて来て、こんなことを思ったことは初めてでした。僕には、もうなにも残っていなかったんです。

椅子にドサっと座り込んで、ドリーに「僕はまだ死にたくないよ」と言いました。「死なないよ」とドリーは答えました。僕たちの会話はここまででした。

その週末、僕は少しゆっくりして、ドリーと落ち着いて話をすることができました。ドリーは、たまたま見たテレビの医学番組の話をしてくれました。その番組では、体調不良を訴える一人の患者が、何軒も何軒も病院を尋ね、色々な検査をしても異常が見つからず、何の病気かもわからず、治療もできずどんどん悪化していくのですが、ある医師が一つ一つ状況を紐解きながら、何の病気かを割り出していくという話だったのですが、ドリーが僕に、「もしかしたら、エルも普通の検査ではなかなか見つけられない変わった病気なのかもしれないよ」と言ったのです。僕は、なんだかちょっとハッとしたのを覚えています。

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その後も、考えれば考えるほど、そんな気がしてきました。これほど仕事が忙しくなる前までは、僕は全然元気だったし、どこもおかしい所はなかった…これはそのテレビに出ていた医師のように、別の視点から1つ1つ解明していく必要があるんじゃないのかと、思うようになったのです。

このあとすぐ、その年の仕事納めとなり、僕とドリーは、以前から計画していた通り、僕の母や妹夫婦とハワイで集合し、一緒にクリスマスを過ごすことになっていました。副腎疲労判明まで、あと4カ月あまりのところです。