2015年、この年はこれでもかと言うくらい、僕は打ちのめされました。ドリーまで病気になってしまうとは…。
ドリーは、普段からこう言っています。「私が病院に行くと言った時は、本当に何かまずい時だから」と。それくらい、彼女は病院に行きません。というよりも、病気のドリーを見たことはほとんどありません。熱を出したり、インフルエンザにかかったりもしない。
調子が悪い時も、ちょっと横になってくるから放っておいてね、と言ってさくっとベッドに入り、1時間くらいたったらひょっこり元気な顔を見せてくれます。自分で自分が良く分かっていて、体の調子も自分でちゃんと把握して対処法を知っているし、いつも安定していて、体のことで心配になることはほとんどありません。
そんなドリーが「なんかちょっと胸が変な感じがするから、病院に行ってくるわ」と言って、一人で車を運転して総合病院に向かいました。マンモグラフィーと超音波検査を受けて、ちょっと怪しいからと、その日のうちに生検までやって、結果が出るのは2週間後ということでした。
ドリーからの電話を受けた時、僕は仕事を終えて駅に向かっていた時だったと思います。この話を聞いてまず思った事は「ドリーが病気になるはずない!絶対に悪い病気じゃない!」。でも僕の体は、この話にストレス反応をしてしまい、手足が麻痺したような感じになってしまいました。ものすごい恐怖が体中に充満して、電気椅子で拷問を受けているかのように電気がビリビリと胸から手、足の先まで流れ、体を自分でコントロールできない感じになってしまいました。家に帰らなきゃ、ドリーを助けなきゃ、と思うんだけど、また変な電気ショックが体中を襲うという、もうズタボロな状態でした。
家に着き、ドリーは乳がんの可能性を指摘されたことを落ち着いて説明してくれましたが、僕はもうダメダメでした。そんな話を受け止められる余力がありませんでした。話を聞いているんだけど、何も頭に入ってこない。脳も心もはるか遠くをさまよっているような状況でした。
仕事の忙しさ、プレッシャー、ストレスで、僕の副腎はもうまともに機能しなくなっていて、自分の体に次々に起きる不調、倦怠感、歩けない足、頭はもやもやしてちゃんと考えられない、回数を増すパニック障害、体のそこここから現れるおかしな症状で、僕は自分が死んでしまうかもしれないという恐怖のどん底に居た時に、ドリーの乳がんの話は、どんなにがんばってももう受け止めることができませんでした。
2週間後に出る検査の結果は「ご主人と一緒に聞きに来てください」と医師に言われていたのですが、ドリーは「来なくていい、来なくていい、全然ノープロブレム」と言って、一人でまた車を運転して行きました。そして帰ってきて言いました。「乳がんだったけど、早期だから。早く見つかってラッキーだわ」僕はわかっていました。わざとそんな風に言って、僕にこれ以上ストレスを与えないようにしていることを。
「なんで私が??」などとうろたえることもまったくなく、いつもと全く同じ様子で「日本人女性の12人に1人がなるって言うんだから、私がなっても全然不思議じゃない」と言い、僕は黙ってうなづくことしかできませんでした。
それから、彼女は僕の副腎疲労を調べてくれたのと同じように、自分の病気についてもものすごくリサーチしていました。ガンのタイプ、手術法、再建のこと、ホルモン治療や抗がん剤のこと、そしてどの病院で手術するかについて。
来る日も来る日も、夜遅くまで調べていました。僕は何もできませんでした。ただ、調子悪いとか、眠れない、とかそういう事を言わないようにするぐらいでした。
ドリーは、地元の病院ではなく、自分で探したある病院のある医師に手術をしてもらうべく、転院の手続きなどを粛々とやり、あれよあれよという間に、その病院で手術を受ける手筈をすべて整えていました。その間もまったく落ち込んだり、泣いたり、一切しませんでした。ドリーは、自分の両親にも手術が終わるまでは言わないと決め、本当に一人で何もかもやっていました。
毎日飲んでいたお酒も完全に絶って、甘いケーキやパンもガンの餌になるからと言って食べるのをやめ、人参とリンゴのジュースを飲むと決め、スロージューサーを買い毎日飲んでいました。だから、ドクターAにコールドプレスジュースを飲むようにと言われた時、家にはすでにスロージューサーがあったのです。
手術の日を待つのみ、という状態になって、僕たちはずーっと伸び伸びになっていた誕生日のディナーに出かけることにしました。1か月以上遅れての誕生日でした。そこでドリーは、はじめて手術について話し始めました。「まず起きない事だけど、万が一、何か・・・」と言ったところで、僕は「やめて、今は…もう…無理」と言って彼女の話を遮ってしまいました。ドリーは話すのをやめました。
最低な男でした。その場で全身から血が引いたようになって息もできず、倒れてしまいそうだったんです。もう僕には何も残っていませんでした。人間として壊れてしまっていました。割れて粉々になったガラスが床に散らばっているような、僕はそんな状態でした。
その日以降、ドリーは入院や手術の話は一切せず、手術の同意書にも、ドリーは僕にサインさせず、兄弟に頼んでいました。
そして、入院する日の朝、彼女は一人で荷作りしてあったスーツケースをゴロゴロ引っ張って、一人で2時間以上かかる道のりを病院まで行ったのでした。僕は付きそうこともできませんでした。
手術は翌日の朝からなので、お昼には終わっている、と聞いていました。僕は昼頃に何度も電話を掛けてしまいました。何度も掛けなおして、ようやく電話(facetime)に出たドリーの顔にはまだ酸素マスクがついていて、麻酔から覚めたばかりでした。ちょっと早すぎた…と思いましたが、それでも、一生懸命スマイルしようとしているドリーの顔を見て、本当に安心しました。そして、むにゃむにゃとはっきりしませんでしたが、手術はうまく行って、大丈夫だと言ってくれました。本当によかった…。
夜、もう一度電話をしたときには、もう起き上がって、病室の椅子に座って普通にしゃべっているいつものドリーが居ました。退院の日も彼女は一人で荷作りして、費用を払って、また電車で2時間以上かけて戻ってきました。タクシーを使うように言っていたのですが、彼女は普通に電車を乗り継いで帰って来たのです。
翌日から普通に起きて、腕が上がらないと笑いながら、軽い家事をしたり、仕事のメールを確認したり、手術して戻って来たばかりの人とは思えないほど、普通にやっていました。本当に。。。
自分の奥さんが乳がんの手術だと言うのに、僕はそばにいることさえできませんでした。彼女が麻酔から覚めた時に、一人ぼっちだったことを考えると、今でも自分が不甲斐なくて情けないです。
ドリーは本当に普段から我儘を言わないし、僕に頼み事などしたことがないんです。でも病気の時くらいそばに居て欲しかったに違いないのに、僕は自分が廃人のようになっていて、何一つしてあげることができませんでした。ドリーは僕の生きがいなのに、その彼女を支えてあげることができませんでした。本当に使いものにならなくて、ごめん。
ドリーはそれから、毎日毎日驚くほどの回復力で、どんどん体が動くようになり、上がらなかった腕も1週間もたたずに頭の上まで上がるようになりました。
その一方で、僕は自分の髪をシャンプーすることさえしんどかったというのに。副腎疲労なんていうこの情けない自分の体を、僕は本当に恨みました。